貨幣経済が崩壊する1000年後その時人類に起こること


人類のお金からの解放。
そんなフレーズを目にする機会が出てきました。はたして我々人類を支えてきた貨幣経済の崩壊する瞬間は訪れるのでしょうか。

評価経済ってなに?

評価経済という概念がちょっと注目されたりしました。その中の1つの要因としては、VALUというサービスです。私個人は『VALUってアウトじゃね?』というどちらかというと否定的な内容を書いたのですが、
ブロガーなどの人々は『個人の信用によってお金が集まる!素晴らしい仕組みだ!』ということを言っているわけです。

評価経済とは何か、それをざっくりと説明するとすると、YouTubeやニコニコ動画、TwitterなどSNSによって一般人が人気を得ることができ、そういった人達がファンからの送金やプレゼントで生活していけるから、お金はいらないよというような概念です。

これを一部の人は評価経済社会と呼んでおり、お金に縛られない生き方として賞賛していたりします。

評価経済とは貨幣経済に変わりない

ただ、評価経済とは言うものの、実際のところ別にお金を持たずに生活ができるかというとそうでもなく、自分の評価だけで野菜が買えるわけでもコンビニで商品を手に取ることができるわけでもないわけです。自分の信用を何かしらの形でお金に変えたりお金をもらったりとかすることができると言うだけの話で、お金を介してして生きていくという点で言うと今までの貨幣経済と何ら変わらないと私は考えています。

むしろこういったニコ生主やユーチューバーなどがファンからのお布施をもらうことによって生活ができるという様なスタイルの変化は、経済に仕組みそのものとしての評価経済への移行ではなく購買の変化なのではないかなと感じています。

購買の形の変化

今までの購買と言うのは物に対するものが中心でした。物という実在する実際に存在する存在に対して人間は価値を見出してきたわけですが、それが今では体験への変化に変わってきています。
形に残るものではなく、体験に対して人間はお金を払うになったというのが一つの大きな変化です。CDからライブ、のように、体験することに購買が移りつつあるわけです。というよりも、一種の所有への意欲の低下と言えるかもしれません。
体験というのはその場で消えてしまうものですが、それに対する価値が認められているということでしょう。

そしてその次の変化と言うのが物→体験→感情へとさらに変わってきています。
例えば、ワンパンマンという漫画では実際にインターネット上でコンテンツが配信されており、それを無料で見ることができます。誰もがコンテンツを無料で楽しむことができるにもかかわらず、それと同様の内容の単行本が売れているのです。無料で公開しているコンテンツならばわざわざお金を払うインセンティブはないはずです。
しかし、ワンパンマンのファンは1つは所有欲という単行本という実物の存在、そしてもう1つは納得感でお金を払っているのです。つまり、面白いからお金を払いたいという思考です。

感情に基づいた納得という消費の形

コンテンツを楽しむだけだったらインターネット上で無料で十分に出来るはずです。しかし、単行本を買う人がいるという事はワンパンマンというコンテンツに対して一種お布施をしているというような感覚ではないでしょうか。
人間は、この人にお金を払いたい、この作品にお金を払いたい、この会社にこのブランドにお金を払いたい、という感覚でお金を払うような習性があるということです。お金を払うものに対する納得感であったり好きという感情の具現化という理屈が存在します。

これが、購買の、物→体験→感情という変化です。

感情の購買が、非常に綺麗に回ったモデルがアイドル産業でしょう。
握手をするというのは1つの体験であり、これにお金を払っているファンがいるのは納得できます。そして、もう1つ、AKBなどの総選挙に対して大量のCDを購入してその推しメンと呼ばれる自分の好きなメンバーの順位を上げるために投票を行います。

これは、体験でもありません。本人にとって握手をしてもらえるとかの利益は一切ないからです。ファンにとって、好きなメンバーが選抜入りしたりして次の曲で活躍する姿を見るのは、1つの体験かもしれませんが、本質的な部分は先ほどと同様『感情の購買』にあります。

なぜ彼らが数百万というお金を投じて、推しメンを応援するかというと、自分の好きなアイドルに対してお金を投げるということに対する一種の満足感があるからです。先ほどのワンパンマンのように、自分の好きな作品だからお金を払ってもいいと思うのと同様、自分の好きなアイドルだからお金を払ってもいいという形です。その子が、そのアイドルが頑張っているからお金を投じてあげたいという1つのアイドルへのお布施の様な形が成立しています。

評価経済は、『金融』の1つの形だ

このように、評価経済とされているものは、あくまで購買そのものの性質の変化によるもので、決して貨幣経済における変化ではありません。依然として、貨幣経済であることには変わらず、人間は貨幣から解放されたわけでも、貨幣を捨てたわけでもないということになります。

クラウドファンディングなどによって、資金を集めることが容易になりましたが、これ自体は貨幣経済における『信用による流動性の高まり』と言えるでしょう。信用や人気によって、『この人にお金を使って欲しい』という感情でお金が投じられ、ビジネスや製品が出来上がるのは先ほどの感情の購買と同様です。

むしろ、評価経済というより、家入一真氏の提唱する『資金集めの民主化』と称する方が正確でしょう。クラウドファンディングもアイドルもお金を投じる側は、何かしらの期待をもって、信用して、お金を払っているわけです。それに応えてビジネスを実現したり、アイドルならば成長するという対価をもたらしていると考える方が自然です。
この場合、通常商品を提供するという最後に得られる報酬を先に得るという少し不思議な形にはなりますが、購買であることは間違いありません。

貨幣経済は終焉しないのか

では、次に本当に貨幣経済は終焉しないのかということを考えたいと思います。
人間が物々交換から、貨幣を使い出した瞬間から経済というものは存在しています。その貨幣というのは、時に穀物であり、家畜であり、地域によって異なるものでした。それが、今ではお札に変わっており、基本的に一国に一貨幣という仕組みが現状です。

この、貨幣経済はすでにおおよそ完成しているように見えます。従来は、貨幣そのものが腐ったり(穀物や家畜の場合)、正確に量を認識できなかったり(金が貨幣の時、金メッキを施した銀が流通するなどした)、大きな問題を抱えていましたが、今ではスッキリ我々は貨幣を信用することができるようになりました。

ただ、この貨幣経済には次のステップがあると私は考えています。

もしこの世の中が極限まで豊かになったら

もしこの世の中が、極限まで豊かになったとき、極限まで様々なものの値段が下がった時、いわゆる限界費用ゼロの世界が来た時に、貨幣というのはその機能を失うのではないかと考えています。

今、我々が貨幣を用いて商品を購入するのは、物の値段があるからです。物の値段があるのは、それが限られた存在であり、なおかつコストがかかるからです。
お米を作るには、コストがかかります。そうなると、当然コストよりも高い値段をつけて売ることになります。経済として当たり前の原則です。

これが、コストがかからなくなったら、つまりAIなどが無限に我々のために食料を作ってくれるようになったら、タダで商品が手に入るようになります。生活するためのあらゆる物がタダで手に入るのならば、そもそも貨幣を持つ意味がなくなります。
これが、貨幣経済の次の社会です。

極限まで豊かになればあらゆるものが価値を失う

この世の物の値段は、コストと『需要と供給のバランス』によって決まります。土地や金などの限られた存在は、コストはゼロとみなすことができ(もともとこの世で量が決まっていて、増やすことができないからです。)、完全に供給に対する需要の量によって値段が決まります。

そして、こうした資産も価値を失います。
極限まで豊かになった社会では、移動にかかるコストや時間が極限までゼロに近づくため、土地の価格はゼロに近づきます。金などの資産や貴金属も豊かさの象徴だからこそ価値を持つものであり、みなが豊かになった社会ではそんなものは意味をなしません。

そうした世界で、はたしてどんなものが価値を持つのか。綺麗な服も、美味しいご飯も、楽しい映画も、無限に手に入る中で人は何を求め、何に価値を見出すのでしょうか。

人類の永遠の欲求が承認欲求

どんなに社会が豊かになっても、貨幣が価値を失っても、無限に増えるどころか世の中で一定の量しか存在せず、かつ価値を持ち続けるものがあります。
それは、『人間からの評価』です。

承認欲求というのは、人間の持つ欲求の中でも5大欲求に属する極めて根源的な欲求であり、なおかつ相対的な評価によって決まる部分があるため、常に全ての人が満たされるということがありません。

今、人類が貨幣を用いた貨幣経済の中で生きているのは、貨幣によって得られるあらゆる豊かさに価値があるからです。そこになぜ価値があるかというと、絶対的な量が存在し限られているからです。
だからこそ、ブランド物には価値があります。『それを手に入れることができる』というシグナルに価値があるからです。

極限まで我々が豊かになった時、価値を持つのは同じように限られていてなおかつ価値のある(人間の欲求を満たすことにつながる)という要素を満たす『好感度』になるでしょう。

Instagramの世界観がリアルを支配する

貨幣経済において、人間は豊かさを追い求め、それにつながる貨幣のやり取りをしています。
次なる好感度経済では、人間は他者からの評価を求め、それが貨幣のような存在になります。

今、Instagramでは、そこに投稿した写真に対するいいねの数を競っているような状況が存在します。それと似たような、『どれだけ自分が他者から評価されているか』を競うような社会が到来するでしょう。

しかし、今のInstagramでは、セレブさであったりおしゃれさが評価されるような形ですが、こういった要素は意味を持ちません。なぜなら世の中が極限まで豊かになれば、みなが海外旅行に行くことができるし、おしゃれな服を着れるし、コーディネートもAIが考えてくれるようになるからです。
そういった物質的な部分で差がつくことはありません。

好感度経済で重要視される要素

好感度経済では、その人の人間性や、感情を刺激する部分が評価されるようになります。話がうまいとか、顔がいいとか人のために何かをしているとかそういった部分が評価されるようになります。

極限まで社会が豊かになった時、人間が力を注ぐのは、アートとか音楽とかスポーツになるでしょう。娯楽と仕事が一体化したようなものになってきます。仕事として今まで嫌々やっていたものはロボットに代替されるので一切必要がなくなります。

一方で、人間の心を動かすコンテンツというのは完全に代替されることはありません。
今、口だけを使って筆で描くアートが話題になっていますが、これは不自由さという人間的な部分があるからこそ人の心を動かしています。もし、AIが優れたアートを作ることができるようになったとして、そこにある背景などの人間らしさは真似することができません。『人間がやっているからこそ』人は心を動かされるわけです。

そして、そういった人間の心を動かすことのできる能力を持った人間が評価されるようになります。

好感度経済における格差の発生

能力があると評価されている人間が、大衆からの評価を集め、またそれによって作品を作るなど、他者からの評価を得るに値する行為を成し遂げます。そのことによって、多くの協力者を得ることができ、また能力があると評価されるようになります。

この好感度経済の特徴は、貨幣経済のように減るようなものが流通しているわけではないということです。我々は、お金を使うと減りますが、彼らは好感度を用いて、他者と交流したり、何かを共同で成し遂げて、また好感度を得ることができます。

貨幣経済でも、資本主義においてお金を投資すればするほどまた集まってくるようになっていますが、それより遥かに格差の拡大が大きいのがこの好感度経済の特徴です。

好感度経済の仕組みは貨幣経済と共通する

好感度経済においては、他者からの人気を持っていること、また異性からの人気があることが非常に重要であり、今の貨幣経済で言うお金を持っていることと同じだけの幸福を得る要素になります。おそらくそれ以上に重要になるでしょう。

自己愛性パーソナリティ障害というパーソナリティ障害があり、その人々は承認欲求のために、注目や関心を集める行動に出たり、他者を批判したり、承認を集めるのとは真逆の行為に出ますが、
この好感度経済においては、こうした行為が顕著になるでしょう。好感度がないからこそ、承認を求めてむしろ好感度をさらに下げることになってしまいます。

これは、貨幣経済において、お金のない人ほどお金の貯まらない行為に及んでしまうことと非常に似た構造です。お金がないからこそ貯めることができない、余裕がなくて衝動買いなどに走ってしまう、お金がないからこそ日銭稼ぎに走るというのと全く同じ現象です。

長くなってしまいましたが、この好感度経済がくるのはおそらく1000年は先の話ではないでしょうか。
人間は貨幣から、お金から解放されるものの、自身の欲求によってまた新たな経済を構築するというのはこれまでと変わらないでしょう。