”地頭”という言葉は広く広まり一時ブームになったほどです。
ところが、この地頭について考えてみると非常にナンセンスな言葉であることが分かります。
たびたび聞かれる地頭という言葉
就活の現場なんかはなおさらだとは思うのですが、”地頭”という言葉をよく耳にします。上記の記事なんかは企業がいかに優れた学生をとりたいか、言い換えればスペックのいい学生をとりたいかが表れていて、そのために企業は非常に多くの努力を重ねています。そんなときに出てきたのが”地頭力”という言葉でした。これは簡単に言うと知識や訓練に左右されないその人の持っている本質的な頭の良さを指しています(言い換えれば先天的、もしくは知能の形成が行われる12歳までを拾っているようにも見えます)。
この地頭力というのはベストセラーになった書籍も登場するほどに流行しました。中には地頭を鍛えようという地頭の定義とは矛盾した内容もあったように思えます。きっかけとしては『マイクロソフトやGoogleの採用試験』にあるのではないかなと思われます。たとえば、『南へ1キロ、東へ1キロ、北へ1キロ進むと出発点に戻るような地点は、地球上に何ヵ所あるか』というような問題とか。普通の勉強では太刀打ちできない柔軟な思考を試す問題とも評されたこの問題、そしてフェルミ推定やケース問題と呼ばれる外資のコンサルティングファームの出す問題(シカゴにピアノの調律師は何人いるのかとか国内のカフェの売り上げを2倍にするにはとかそんな明確な答えの存在しない問題)のような問題が地頭を測るのに適しているとも言われました。
中小企業にまで広まったフェルミ推定
そんな地頭力を測る問題は学力という限定的な答えの存在するものと違って正解がないことから採用試験において非常に注目されました。これで、本当の能力を測ることができるぞと。
そして、はじめにこういった問題を行ったGooleなどの超一流外資系企業から遠く離れた中小企業でもそういったような問題が出されるようになりました。『この水を1000円で売るにはどうしたらいいか』とかを唐突に聞いたりするわけですね。
当然Googleのような世界の頭脳が集まったところではこのフェルミ推定などの問題に対する的確さにどれだけその後の仕事における優秀さとの相関があるかということを考えるわけですが、上記記事を読んでいただければ分かるように、結果としては関連性があると認めるには値しなかったとのことです。(ちょっと相関と関連性という言葉は定義が非常に統計的な観点では難しいのでややこしいですが、おおよそ関係なかったという解釈で結構です。)
もしかするとフェルミ推定やケース問題はそもそもコンサルティングファームで行う業務と非常に似通っていますからかなりの関連性を示すのかもしれません。事実、コンサルティングファームの採用試験ではそういった問題が好まれています。当たり前ですがこの世間一般の認識における地頭というのは仕事での能力とは必ずしも一致しないということが分かるわけです。さらには、中小企業ではそういったデータをとらずになんとなく問題を出していますからはたしてそれが有効なのか検証すらできません。
とはいえ、Googleにおいてそういった結果が出たことからおそらく関係がないとみなせるでしょう。地頭を測ろうとしても無駄だったということです。
フェルミ推定もIQすらも訓練で鍛えられる
たとえば、フェルミ推定(東京にマンホールはいくつあるのかなど)の問題というのは訓練によってその結果が向上することが分かっています。地頭を鍛えるために用いた問題は結局のところ勉強と一緒で訓練や努力量によって左右されていたというオチです。
フェルミ推定のキモは莫大なデータの中から最も有効であると思われるもの(上記の問題では、山間部、都市部それぞれにマンホールは何m2あたりひとつ必要なのかというデータ)を拾い出して答えることが大事なわけです。要するに必勝法に近いものが存在します。絶対的な正解がないというだけでその精度は訓練によって近づけられるということです。
さらにショックなことを言うと、IQテストというのは訓練で成績がどんどん上がります。あれもそりゃ知識に左右されはしませんが、解答にはパターンがあります。パターンに基づいた解法を訓練によって養うことによってどんどんと成績が上がることが分かっています。基本的にどんな問題(IQテストもフェルミ推定もケース問題も)も全て人が作り、そこには一定の法則や規則性や傾向が存在するわけですから、その問題に最適化した考え方や知識というものが存在します。ともなれば訓練することによって限界はあったとしてもスコアを上げるのは難しいということです。
たとえばフェルミ推定に費やす時間はどれだけ多い人でも300時間が限界でしょう。それに対して0時間の人もいるわけですから偶然対策していたかの差というのは非常に出やすいです。対して、勉強というのは1人20000時間とかやるわけです。1番多い人と1番少ない人の差というのはフェルミ推定などの特殊な分野に比べると当然少なくなります。となると、偶然の『どれだけそのことに時間を費やしたか』という要素の影響を最も受けにくいのは勉強になってしまうわけです。フェルミ推定なんかよりずっと正確に地頭に近づけたものであるようにも感じます。
そもそも地頭ってなんだ?
ここまできておいて今更になりますが、そもそも地頭ってなんでしょうか?
先ほど私が世間一般の認識として捉えられているものを代弁した『先天的ないしは知能の発達が成熟する12歳までの段階での知能』であるとすると、それはもっと目的を反映するならば『これからもう鍛えることができない脳の力』ということになります。これから鍛えられるものは鍛えられるからできてもできなくてもどっちでもいいし、大事なのはもう鍛えられない絶対的なスカラーである力だ。という認識で地頭という言葉を使っているのでしょう。おそらくこの認識で間違っていないと思いますし、そう仮定します。
じゃあ知能ってなんでしょうか?
何を持って知能と呼ぶのでしょうか。何をもってしてそのスコアは脳のパフォーマンスを普遍的に表していると言えるのでしょうか。フェルミ推定は訓練で鍛えられますからこれには該当しません。勉強も訓練で鍛えられますから該当しません。もし仮に、勉強やフェルミ推定のスコアもしくは能力が『地頭×費やした時間』に比例するのならばこの地頭は先天的なものだと言えるのでしょうか。こういった認識で”ちょっと勉強しただけですぐできるようになる人”のことを地頭がいいとか言ったりしますからそうであると仮定します。
では、その地頭(先ほど定義したもの)というのはどうやって測るのでしょうか。全員が同じスタートラインから始まるような分野の知的な問題を与えて、それに対して同じ時間でどれだけのパフォーマンスが得られるかを元に測定する必要がありますが、どんな人でも同じスタートラインのものは存在しませんから、それ自体が不可能です。
このように、地頭力というものを定義して、仮にそれが成立したとしても(もし数学が得意国語が得意などの分野によってこれを測ろうとしても違う値が出るのならば絶対的な地頭というものは存在しません)、それを測る手立てというものは存在しません。もしも測ろうとするのならばその人が生まれた瞬間からテストを行うということが必要になるでしょう。
人間の能力は3つに分類される
ところで、人間の能力というのは3つに分類されます。
論理的思考力
非常に分かりやすい話で、A=B,B=C⇒A=Cというような数学的な思考をする能力です。もちろん数学だけでなく、国語だって論理的に考えなければ正解は出ません。数学は数字を用いて論理的に考えますが、国語は言語を用いて論理的に考えます。言語能力は論理的思考力としっかりと結びついています。一般的に頭がいいというイメージではこれが上位にくるのではないでしょうか。
感情把握能力
人間の感情を汲み取る、その人の言っていることの意味を考えるにはその感情などの把握ができなければいけません。なぜなら人間は機械と違って行動パターンや感情を持つからです。言い換えれば人間の感情を読み取りコミュニケーションをとることと言えるでしょう。ものすごい勉強ができても人と接するのが苦手な人はいますよね?
地図的思考力
これが1番マイナーでイメージのつきにくい能力ではないでしょうか。例えば、100年後世界がどうなっているか予想せよ、とか10年後に向けて自分が何をしたらいいか、とかいうのは答えが限りなく出ません。ただ、その一方でどう考えても的外れな答えを出す人間も的確な正解に結果として近い答えを出せる人間はいます。これが地図的な全体を捉えて答えを出す能力です。論理的思考力がミクロな考え方であるとしたら地図的思考力はマクロな考え方です。学歴がなくても飲食店などで成功を築く人間はこの地図的思考力に優れています。
こうした分類をしたところで、実はこれらというのは先ほど定義した地頭力(先天的ないしは知能の発達が成熟する12歳までの段階での知能)とは異なります。むしろどれも後天的なものです。程度の違いはあれど常に高めることも衰えることもできます。論理的思考力は論理的な考えを伴う問題などを解き続けることによって論理的な思考回路を得ることができますし、感情把握能力は常に人の心に気を配りコミュニケーションを常にとることで向上しますし、地図的思考力はそういった答えの出ない問題をいかに正解に近づけるかという言わばフェルミ推定やケース問題で養うことができます。
では、地頭とはいったいどこにあるのでしょうか?
地頭は存在しないもしくは測ることができない
この先の話をすると、脳がどんな構造でどんな働きをしているのかということを考える必要が出てきます。ところが、その脳の機能というのははたして先天的なものであるのかを考える必要が出てきます。事実、ひとつ確実に言えることは、男性は空間把握能力や論理的思考力に優れ、女性は言語能力や同時に複数のことを考えることに優れています。これは先天的な男女という差において起こる能力の差であるということです。ここを突き詰めることによって、そして人種の差を検証することによって脳の差というのははじき出すことが出来そうです。
ところが、例えば上で挙げた4つの能力というのはそれぞれ独立ではなく、少なくとも相関性を持っていることが分かっています。そうなればもっと細かく分類してもっと小さい単位の脳の能力を出すことが出来るように思えますが、それについてはいまだ研究で明らかにはされていません。
今回、ここまで風呂敷を広げながら、結論としては人間はそこまで真理にたどり着いていないということになります。そして地頭を測ることはできないし、その存在があたかもあるかのように定義すること自体が非常にナンセンスであるということです。地頭というのは便利な言葉ではありますがそもそもそんなことにとらわれる必要はないのではないでしょうか。訓練でどのような問題も正解できるようになれます。地頭という言葉自体が非常にあいまいで意味をなさないに等しいレベルのものと言えるでしょう。