成人式があそこまで荒れるたった1つの理由


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成人式で新成人が暴れる姿は今でも見慣れたものですが、
はたしてなぜあそこまでに新成人は暴れるのでしょうか。はたしてどんな理由があるのでしょうか。実は、そこには実は悲しいヤンキーくんの心理と、時間を経るごとに変わりゆく男の階級社会が存在します。

荒れる成人式

本日は多くの地域での成人式でしたが、成人式というのは悪い方面での方が話題になるものです。例えば、九州、沖縄あたりはそのあれ具合が毎年ニュースになるなど、そういった場として認識されつつあります。

今では壇上に上がったり成人式を妨害する新成人は風物詩となっています。警備員など成人式に大きなお金もかかっていますし、笑いごとで済まされる領域はとっくのとうに超えているように思えます。では、なぜ成人式はここまでに荒れるのでしょうか。

若者の階級制に起こる異変

なぜ成人式が荒れるのかという話の前に少し違う話をしましょう。いわゆるスクールカースト、ヒエラルキーに関する話です。

・小学校では足が速い
・中学校では顔がいい
・高校ではおしゃれ・
大学では頭がいい
・社会人ではお金がある

これらが女の子にモテるための条件とも言われたりします。
このように、年をとるごとに若者にとっては、特に男にとっては(他者に評価されるために)大事なものが変わっていきます。ということは、小学校まではちやほやされていたのに中学校に入れば全くとか、高校まではよかったのに社会人になれば全く人気がないというようなことが起こるわけです。おそらく男性の方が女性よりもそうした人気の逆転が起こりやすいです。

そんな大きな転機が起こるのは、特に大きいのは中学校から高校に上がる頃です。(もちろん、今では地域によっては3分の1の生徒が中学受験をしたり、そのタイミングはちょっと早くなっているかもしれませんがそんなことが起こるのは東京の一部の話です。)
多くの地域では高校に上がる際に学力別に層が分けられます。要するに勉強ができない子と勉強のできる子の接点がなくなるということです。中学生までが、全然別の文化、リテラシーをもった集団が交わる最後の時間かもしれません。

小学校、中学校とガキ大将で人気者だった子が、
『え、〇〇くんはあそこの進学校にいくの?すごいねー!』なんてガリ勉の同級生に人気をちょっとずつとられていきます。そこまではまだいいんですが、特に高校を卒業するとそれぞれの人生というのが大きく分かれることになります。勉強のできる順に、一流大学、二流大学、専門学校、高卒といった具合に振り分けられるがごとくに進路が別れます。

そうなると最も残酷なのが同級生の女の子の対応です。しょうもない話ですが、男にとって生物的に女性が寄ってくるモテるというのは非常に大事なことで、それが元であいつに勝った負けたというのを意識するわけです。いわゆる「ヒエラルキー」というものを決めているのは男性にとっては女性が大半です。

で、女性というのは生物的に力を持っている(この場合の力は権力、能力、お金、能力など)男性を好みますから、いい大学にいっている男の子がすごいモテるようになります。ガキ大将からすれば小学校中学校はあんなに楽しかったのに、ヒョロヒョロのちょっと勉強ができるやつが有望な人生を歩んでいるわけです。しかも高卒で土方でもやっていればその悲惨さが目に付きます。これはなんだかおかしいぞと18歳も超えれば気付くようになるんですね。中学校の時はヤンキーやっててあんなにモテたのに、ガリ勉くんなんてパシリとしか思っていなかったのに、今では違う世界にいて関わることもないし、しかもどうやら高学歴や金持ちがモテるようになっているっぽいと分かるわけです。

20歳前後で起こるルサンチマン

そんなとき、彼らができることは限りなく少ないことにもまた気付きます。自分の周りにいるのは同じような高卒の人間ばっかりだし、そのときに世の中を支配しているのは腕っぷしの強い自分たちのような人間ではなく、小学校の頃にはバカにしていた勉強だけできるやつです。現場の偉い親方は大卒のスーツ着た建設会社のひょろひょろサラリーマンに頭が上がらないのを目にします。当然、自分には頭がないことも知っていますからお金を稼いで周りの女の子を見返そうにもなかなかどうにもなりません。

人生というのは高校に入るあたりを境にして、”勉強”というただの1つの要素で(彼らからすれば)ヒエラルキーを逆転させられてしまうわけです。まだ、楽しく過ごせているのならいいかもしれませんが、お金は楽しく遊べるほどにはないし、何より今までチヤホヤしてくれていた女の子は一流大学へいった男の子たちへ興味津々で見向きもしてくれません。コリドーにいったところでヤンキー上がりの彼らにできることはありません。

『なんであいつらが…』というような感情が湧いてくるものの、もうこの歳になればケンカが強いことは何の足しにもなりません。頭がよく、お金を稼ぐ能力があることが社会での競争に勝つために大事な要素ですから、彼らはすでに競争にすら混じることができなくなっています。そして誰にもチヤホヤされないし、そもそも高学歴くんの楽しく過ごしている大学というものへは関わる機会すらありません。テレビの中のような出来事です。

自分の力を見せつける最後の機会が成人式

もう分かったでしょうか。
彼らのような人間からすれば社会は見事に高学歴の頭いいやつらと自分たちのような腕っぷしは強いけど勉強のできない層とは分断されています。関わるチャンスすらもらえませんし、女の子は取られてしまっています。そんなときに最後に『俺たちはこんだけ力があるんだぞ』と見せつける最後の機会が成人式なのです。

成人式をぶち壊すことは彼らにとってみれば権力へのアンチテーゼなのです。普段そのような頭のいいやつらと戦う機会すら持たせてもらえない彼らにとって高学歴も一堂に集まる成人式で暴れまわることで、『俺はこんなに偉いんだ』という風に誇示したいのでしょう。

小学校の頃はガキ大将をやっていればクラスの人気者になれたのが今や蚊帳の外になっているわけですから、そういった現実に対する精一杯の反抗とも言えます。自分の力を誇示する機会なのです。

成人式は一種の様式美なのではないだろうか

そうした背景を考えると、そんなヤンキーくんたちが成人式におとなしく参加する方が無理があります。いい大学に入ったガリ勉くんたちが目立つ中、どうにかして自分たちも力を示したい、女の子の気を引きたい、そんな最後の瞬間です。

成人式を最後にして、彼らはガリ勉くんたちと関わる機会もないし、腕っ節を見せつける機会もありません。
同窓会で暴れるわけにもいきませんし、何度も言っているように女の子はお金の持っているスーツを着たやつらに夢中です。交わることがない上に相手にされることすらないわけです。
というわけで、成人式とは一種のそういったヒエラルキーの逆転が生み出した形式美でした。