理想が崩れ去ったウィキペディア


ウィキペディアが非営利で運営されているのは有名な話だろう。
崇高で高い理想を掲げて始まったウィキペディアという団体はその理想が崩れ去るような事態を招いている。

ウィキペディアの起源

ウィキペディアはリバタリアンの手によって、”分権的な知の創造”という崇高な理想を掲げて始まったボランティア団体によって生まれた。
リバタリアンとは集産主義的な傾向を強く嫌い、個人の自由を求める思想を持った人々を指す。今回のウィキペディアで言えば、それは政府やそれに類する組織に知識や学問が集中することを嫌っている。知は個々人がその権利を持ち自由にそれを編纂することができるべきだとしている。そしてウィキペディアは個人が知を集結させるプラットフォームになっている。

ところが、その平等主義の理想はウィキペディアの中には存在しないという。全ての人間が権利を持ち、知を編纂するはずだったウィキペディアは、少数のスーパーエディターが牛耳るまさに官僚社会のようであると『Future Internet』に掲載された論文は指摘している。

スーパーエリートが権力を持つウィキペディア

ウィキペディアには特別な権力を持ち、それを行使しウィキペディアを取り締まる機関もない。そして上から指示を出し、上下関係を作るような系統も存在しない。では、なぜ一握りのスーパーエディターが全てを牛耳る構造になるのだろうか。
権力の存在しない平等な世界のはずなのになぜそこで階級が生まれるのか、ユーザーは見えないルールに縛られるのだろうか。ウィキペディアの2001年から2015年まで15年間の数万人分のデータはそれを導いている。

ウィキペディアが設立されたのはウェブ2.0という概念の始まった2001年1月のことである。
ウィキペディアのような組織にすら『寡頭制の鉄則(Iron Law of Oligarchy)』が見られたのは非常に驚くべき点である。これは、少数のエリートによる多数の支配を指し、ドイツの社会学者ロベルト・ミヒェルスがイタリアの政党の研究をしているときに提唱した概念である。どんな理想から民主主義に燃えた組織も組織であれば、少数のエリートによる支配が生まれるというものである。

行動規範はほとんど変わらず

人は平等と誇り高き理想を求め、分権的な民主主義をスタートさせる。しかしながら、当然のように情報や人脈へのアクセスをもつ支配層とそうでない層に分かれることになる。弱者の利害と支配層の利害は必ずしも一致しない。これにより、支配層は絶大な権力を手にし、いずれその権力を行使するようになる。

記事は500万件以上、トークは数百万ページ、編集は5億8700万件という膨大なウィキペディア英語版の全履歴を調べてモデリングを行った結果、ほんのひと握りのエディターがサイトに絶大な影響力をもっていることがそこから判明したという。
その中で規範を調べた結果分かったのは、、15年で3万人規模にまで増えてきたのに、その行動規範は黎明期の100人が考えた当時のままのものが89%であるということであった。非常に保守的で15年前のルールを今もほとんど変えることなく遵守し続けていることが明らかになった。

ウィキペディアの悲惨な現状

そしてウィキペディアのエリートは4つコミュニティのいずれかに属しており、それぞれのコミュニティは徐々に疎遠になっているのだという。これは複雑な組織で起こる『デカップリング』と呼ばれる現象である。
それによって規範もまた変化していく。昔は実践的なルールであったものが、徐々に神聖化していき、その中で規範同士が矛盾し合うことも珍しくないという。秩序を守るための意味ある規範がいつの間にか謎のしきたりに変わってしまうのである。

ウィキペディアは平等な組織を間違いなく目指していた。しかし、それは脆く消え去った理想であった。このことは多くの組織にも言える人間の普遍的な過ちなのではないだろうか。人間とはどれだけ高い理想を持とうとも、一時の感情によって、自分の利益に目がくらんでそれとは違った行動をとることがある。それは歴史が証明している。その中でそれに応じた社会を構築していく必要があると言えるだろう。