はたして善人や悪人という言い方はどれほどまでに正しいのでしょうか。
世の中ではこういった表現をよく見ますが、この区別というのはどれほどまでに正確に事実を言い表しているのかというと疑問であります。
悪人はいるのか
様々な犯罪がニュースを通して我々の目に飛び込んできます。その中でも最も痛ましいのが人の命が奪われる殺人事件ではないでしょうか。なぜ人が人を殺してしまうのかというのは永遠の疑問かもしれませんが、これほどまでに文明そして技術の発展した世の中でも殺人事件および犯罪というのは尽きることがありません。
最近では多く報道されるのが、川崎市の児童殺害事件です。未成年の少年が少年を殺害する、さらにその方法の残虐さがニュースで大きく取り上げられ、その常軌を逸した行動には様々な声が寄せられました。
とはいえ、私が感じるのはその加害者ははたして本当に悪人なのだろうかという点です。殺人を犯したものは裁かれてしかるべきですし、それについて議論の余地はないでしょう。私が言いたいのはそうした部分ではなくて、はたして彼らは根っからの悪人なのだろうか。悪人だから人を殺したのだろうかということです。
犯罪者は総じて知能が低い
オウム真理教の麻原彰晃死刑囚など、圧倒的に高い知能を持った犯罪者ももちろん存在します。そうした計画的な犯罪者は別として、一般的な(衝動的な)犯罪というのはおおよそ犯罪者の知能についてはかなり低いのではないかと私は考えています。犯罪がいいのか悪いのかという倫理的な部分を抜きにして、この世の中で犯罪を行うというのはおおよそ割に合わないことだからです。
そして、犯罪を行ったことを悔いている人間がほとんどではないでしょうか。私の知識不足なのかもしれませんが、犯罪を計画的になおかつ継続して行う人間というのはあまり見たことがありません。あるとしても万引きや横領などのレベルではないでしょうか。
ともなると、多くの犯罪者、今回の話で言えばこいつ悪人だなと言われるような人というのは衝動的にカッとなったものを我慢できなかったり、生活に苦しんでもうやってしまえという風に盗みを働いたりするケースがほとんどであるように思えます。そうした際にただただ彼らを犯罪を行う悪人として捉えるのはちょっと違うようにも思えます。
彼らに非があったとしたらそれは感情をコントロールできなかったことです。一時的な感情に影響されて取り返しのつかないことをしたということであって、悪人であったからそれが起こったわけではないのです。そう考えたら、犯罪を抑止するためには、悪人だよくないぞと言う風に倫理に訴えかけるよりも、感情のコントロールをできるように教育するなどのことを行うべきなのではないでしょうか。
サイコパスと企業倫理
ここまでの論調からずれるのですが、世の中には良心というものを持たない人間も存在します。それが、サイコパスという人種なのですが、『良心がない』と言われる彼らは全人口の1%存在するとされており、悪人という定義からすると非常に当てはまりのいい人種なのかもしれません。残酷な殺人を平気で行うのも彼らのそのサイコパス的な性質からなります。”共感”という機能がないため、周りの人間が苦しんでいることに対しても特別感情を抱くことがありません。
また、同様に、企業というものは往々にして共感の能力に乏しいことが言えます。アメリカの自動車メーカー、フォード・モーターには、自動車自体に10回激突されると9回車に乗っている人間が死ぬという欠陥を見つけましたが、それを直すよりも賠償金を支払ったほうが安く済むためそのままにしていたという逸話があります。企業という組織体になると判断はどんどん利己的かつ理性的になりますから、サイコパスと同様のことが言えそうです。
悪人はいるのかもしれないがその数は少ない
善人・悪人というものを分けるとしたら倫理性以前に共感能力というのが大事になってくるように思えます。とはいえ、一般の犯罪者および何かのトラブルを起こす人間については、そういった部分よりもただただ感情のコントロールという能力に乏しいように思えます。よって彼らを倫理的に批判しても何の問題の解決にもならないどころか、まったく持って的外れではないでしょうか。
ブラック企業の問題もその最たる例です。彼らは悪人なのではなく、労働基準法を守って経営を成立させる能力がないだけです。そして、それをマネジメントするスキルもないから、部下を叱り、そのさらに部下を叱りという風に自分が責任から逃れたいという一心で人にそういった行為を強いているわけです。
あいついけないんだ!正義の心はないのか!という風に批判を浴びせたところでそうした問題が解決されるかについては非常に疑問でなりません。その根底にある人間の能力のなさについて増えていかなければ何も改善されないのではないでしょうか。