大盛り上がりのリオオリンピック。
その中で起こった事件が柔道男子100kg超級でした。
オリンピック柔道で起こった賛否
本日明朝まで、リオオリンピックでは、柔道の種目が行われていました。その中で少し話題になったのが、柔道最後の試合、男子100kg超級決勝テディ・リネール選手と原沢久喜選手との試合です。リネール選手は世界選手権8連覇中、オリンピックは連覇がかかっていました。結果から言うと、リネール選手が勝利し、世界選手権9連覇を達成しました。
その中で彼の連覇に苦言が呈されたのはそのスタイルでした。リネール選手が原沢選手に勝ったのは指導の数による判定勝ちでした。そしてその戦いぶりは指導による勝ち逃げを狙ったとしか思えないものであったわけです。リネール選手の試合は終始一貫して、指導や有効、技ありでリードする展開でした。特に相手が指導をもらうケースというのは多く見られました。
男子柔道は5分の時間が設けられており、一本が決まれば当然その段階で勝敗が決します。その他、技ありを2つとると合わせ技一本と言って一本と同じ扱いになります。5分終了段階で、技あり、有効、指導の順に見ていき、技ありが多い方が、その数が同じなら有効が多い方が、その数が同じなら指導が少ない方が勝利します。全て同じであれば無制限の延長に入り、この延長では一本でも技ありでも有効でも指導でも勝敗が決します。
ということは、5分経った段階で相手が指導を1つもらっていて、それ以外何もポイントがなければ勝てるということです。
世界王者の戦い方への疑問
リネール選手の戦い方はまさにそういう戦い方でした。少なくとも私にはそう見えました。解説者もそう見ていたようです。
指導の目的はそもそも、有効などのポイントを得た選手がそのまま5分逃げて試合が終わらないようにであったり、本来1本で勝敗の決する柔道が5分間の中で収まるように両者の積極的な試合運びを促すようにといったものです。指導にはパターンがあり、積極的戦意に欠ける(これは両者に同時に与えられる場合もあります)、自ら場外に出る、かけ逃げ(技をかける仕草でそのまま倒れ込む)、防御姿勢(組んだ最中に5秒以上腰を引くなど)、指を組みあう、意図的に相手と組み合わない、相手から逃れるために頭を抜く
など様々です。
原沢選手が指導をとられた2つのうちの1つ、試合開始8秒で受けた指導が最後の頭を抜く行為でした。奥襟(首の後ろあたりの襟)を掴まれた原沢選手は相手に姿勢を崩されないために体勢を整えたのですが、この頭を抜く行為は指導の対象になります。(ルールブックには、頭を抜く行為を続ける場合には指導の対象、と書かれています。)
リネール選手は決勝以前の試合でもこの奥襟をとる行為を行っています。それは、1つ相手がこうした指導をもらいやすいという意図に基づいたものでしょう。このように、リネール選手は相手が指導をもらわざるを得ないような形の組み手をとり続けていました。少なくとも、我々や解説者からはそう見えました。
柔道はルールで変わった
リネール選手がそうした行為を行ったことは決して責められるべきではありません。彼はルールの範囲内で自分の勝利のために最善を尽くし、その中で10年近くに渡って勝ち続けています。ルールを守っての勝利に疑問など微塵もありません。
問題は、そうした逃げの姿勢をとればとるほど勝ちに近づくような設計をしてしまった柔道のルールです。
“柔道からJUDOへ”
こんな言葉を聞いたことのある人は多いのではないでしょうか。日本で生まれた柔道はスポーツとしてルールを変え、JUDOと呼んだ方がいいほどに元々の在り方は変わっていっています。元来は、一本をとって勝敗を決すものでしたが、よく考えたら有効をとって5分間逃げればその方が確実に勝てると考えるのは自然なことなわけです。
そのため、ルールもまたそうした勝ち逃げを許さないように、積極的な姿勢に欠ける場合には罰則を施すでしょう。
競技の意図した方向性から外れたような勝ち方が出てきた場合には、それを正すようなルールに変えなければいけないのです。
ルールが全てを決める
柔道の中でより一本で勝敗の決する方へとルールを作るべきでしょう。スポーツはその起源に敬意を示し、興業としてより魅力的なものにしなければいけません。柔道が逃げた者勝ちのルールになってしまえば、それを見る人は少なくなるでしょうし、それによって産業が潤い選手の生活が保証されるわけです。スポーツをビジネスにするのは悪いことではありません、むしろそうでなくてはいけません。
見る人に見てもらってそれでスポーツ全体がファンに対して価値を提供することで選手やそれに関わる全ての人がお金を得る、それをスポーツの発展にさらに注ぎ込むわけです。だからこそ、柔道というのは魅力的なスポーツであるようにルールを見直していく必要があると感じる次第でした。